2007年07月31日

桑江良健の絵・移動5

シェルシェルからアルジェに戻り3日ほどベンチで夜を過ごす。何処に行っていいか考えてみるがいい考えが浮かんでこない。何としてもモチーフを見つけなければと思うが、、、、仕方が無いからとりあえずエジプトのアレキサンドレアに行こうと決め、チュニスに向かった。腹がへり息子連れの男性に「パン屋」がないか尋ねるがあいにく何処も休みだ。彼がついて来いと云うので、行って見るとそこは食堂です。私はパン屋を探しているといったら、彼曰く「君は腹がへっているのだろう」と言って彼がその代金を払って息子さんと帰る。そこを出て亀の如く荷を背負い歩きながら、「リビア国境」の事を聞いて回る。残念ながら閉鎖されているとの事、やむなく港の方に向かう。そこでフランス人で私と同世代の男と出会う。彼はベドウィン(砂漠の遊牧民)と生活を共にしながらサハラ砂漠を旅したと云う。私は彼にアルジェリアでの事を話したら「君が探しているモチーフならギリシャのレズボスと云う島にあると思う」と彼は云う。この際彼の話を信じて行こうと決心する。レズボスはアテネから北東方向に船で16・7時間トルコに近い島です。 

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2007年07月30日

桑江良健の絵・移動4

子供達の悲鳴で目がさめる。寝ていた場所が子供達の通学路のそばだったらしく、人が倒れていると思ったのでしょう。ジープらしきのが来たが私が起きていたのですぐ引き返した。朝おきて気が付いた事だが昨日から1回もシッコが出ない。水分は全て汗として出てシッコまではいたらない様だ。バス停まで又亀の如く行きバスを待つ。相変わらず乗り降りは人の助けを借りる。やっとの思いで目的地のシェルシェルに着いたのですが疲れがいっぺんに噴出す。モチーフが私の期待して程のことではない、云えば書く気がしない。普通に考えてこの様なことはあらかじめ予想できるはずだ。沖縄の言葉で「まやぁーさりぃーん」と云う表現があるが標準語で言えば「魔物に惑わされる」、まさにあの時代はそのような状態だったようです。シェルシェルで絵を描き終えたらサハラ砂漠にあるインシャラを通り、ブラックアフリカのニジェールまで足をの延ばそうかと思っていたが、このシェルシェルで私の心はサハラ砂漠になってしなまい行く気になれず。どの様にして引き返したのか判らんがアルジェに戻る。 

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2007年07月28日

桑江良健の絵・移動3

カミューの小説、「異邦人」の舞台になったアルジェ、船からの眺めはひと味違うような気がする。坂の多い街だ。着いた日は船で知り合いになった人の家でお世話になる。翌朝目的地・シェルシェルに出発する、そこはアルジェから西へ約120キロに位置する。バスを乗り継いで行く訳だが、そのバス停まで行くのが大変。。。50キロの荷物を引っ張って坂道を歩く事10分、車輪を取り付けてあるパイプが折れてしまい引っ張る事ができない。そこから地獄が始まる、やむなく背負う事になるが、何しろ山男達のようにそのような訓練をしている訳ではないので30分も歩くとヘトヘト。体を45度に前傾に傾け両の腕をしっかり組んで亀の如く、バス停を探して坂道を上っていたら、前方から一人の男性が「ヘーイ、フランセ(フランス人)」と声を掛けてくる、立ち止まり顔を見上げたら、何と2年前にエクスアンプロヴァンスで知り合いになった人で、お互いにビックリ仰天。彼が「自分の家に来ないか」と誘われたがのんびりしている訳にもいかず目的地に向かう。アルジェの中心地を抜けるだけでクタクタ。絵を描く以前の問題だ。やっとバス停にたどり着いたが荷をバスに積み込む事も大変で車掌さんが手伝ってくれる。何回も乗り継ぐので途中で野宿する事になる。犬でも鳥でも動物が平地で寝る場合少し穴を掘って寝るが、その意味が判るような気がします。私も少しくぼんだ所を探して寝る。 

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2007年07月27日

桑江良健の絵・移動2

一般的に外国に4年もいたら生活も安定するもんだが、私の場合滞在許可も捨てて、後先も考えずここマルセイユまで来てしまう。50キロの荷物を誰かが盗んでくれないかと、荷から離れてアルジェ行きの船着場の事を聞いて回る。しかし親切な人がいて「あの荷は貴方のか、盗まれるから注意しなさい」と心配してくれる。画材など盗む人などいない。ここマルセイユはかつて日本からフランスに留学するためには皆この港に着いたものだが、私はここから出て行くことになる。自由になろうとすればする程不自由になる。フランスに滞在するためには、移民局に行って諸手続きをしてカルトセジュール(滞在許可証)を発行してもらうのだが、日本にいた時も役所に行くのがとても嫌いだったので、滞在許可をもらう為にペコペコするのがいやでいあやでとうとう自由人になってしまう。成功する人は必要とあらばペコペコ頭を下げる事が出来る人だろう。器の小さい私などそれがなかなか出来ない。 

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2007年07月26日

桑江良健の絵・移動1

1976年3月ごろエックスアンプロヴァンスからパリに戻り、夜は似顔絵を描き生活費を稼ぎ昼は絵を描く生活が始まる。ベトナム戦争が終わるとここヨーロッパも閉鎖的風潮になり、自分にとって居ずらく感じるようになる。それでも何とか絵に自信をつけなければと思い絵を描く。モンマルトルで知り合いになった友人が私の仕事を見て、アルジェリアに「ローマ時代からの木」があると云う話を聞き描きに行くことなる。パリにも何か飽き飽きしていたので飛び出したかったのだろうと思う。画材以外は着替えの衣類、寝袋、生活用具、洗面具(歯ブラシは柄が長いので半分に切って少しでも余分の荷物を減らす)。50キロ程になる荷をリュックにくくりつける。担ぐとなると重すぎるのでリュックに車輪をつける。余りにも計画が甘すぎたようだ、出発するパリからはや疲れ果てる。日本と違いヨーロッパのホームは線路と同じ高さ、即ち列車に乗るには3.・4段、階段を上るわけです。先が思いやられる、列車に乗ったら乗ったで、列車の廊下を荷物のお陰ですれ違えない、コンパートメントに入ったら入ったで上部荷台に私の荷物を上げるのに、一人では上げられないので同席の人たちの助けを借りる有様。列車が発車してないうちから絶望的、滞在許可証も更新してないので何日か以内にフランスを出国しなければならない。難民の始まりだ。
 

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2007年07月25日

桑江良健の絵

画像が載せられないので少し気持ちが乗らなかったが、フランスの世界的に権威のあるル・モンド紙の事を思い出した。1980年代初頭までル・モンド紙は写真を掲載しませんでした。写真を使うと記者が安易に記事を書く恐れがあるという。文字だけだとしっかり取材をしなければならない。人形劇団かじまやぁも桑江良健の絵も文字で表現して行こうと決心しました。文才の無い私達がどれほど表現できるかわかりませんが。。。。絵をご覧になりたい方はかじまやぁ美術館にお出でになるか、かじまやぁのホームページをご覧になってください。「人形劇団かじまや、桑江純子、桑江良健」で検索すると出てきます。3年前から更新不能になりそのままにしてありなす。

50キロの画材及び生活用具(寝袋等)の荷物を持って、アルジェリアに絵を描くたため出かけた事や自転車に荷を積んで絵を描きにドイツなどを回った事を書こうと思っています。本当はこのような事は書く気は無かったのですが、これも全て絵に関係する事なので描く決心かつきました。 

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2007年07月24日

桑江良健の絵

ブログを始めたのは画像が簡単に添付出来るからと思い立ち上げたのですが、私のパソコンではそれが叶わずこのまま続けた方がいいか迷う。他社のブログにも登録したが結果はやはり同じ結果になった。人形劇や絵で画像が表示できなければブログの意味が半減する。特に絵の場合は言葉で説明すると絵の意味が全く無くなる。今のブログを続けるためには何か意味づけをしなければならない。 

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2007年07月22日

沖縄人形芝居「チョンダラー」公演

名桜大学・中村教授の日本事情の授業の一環として、開学以来毎年(昨年は美術館建設のため出来ませんでした)、人形劇団かじまやぁによる沖縄人形芝居「チョンダラー」の観賞と、中村教授と奥さんの愛子さんが作るお好み焼きと冷やぞうめんを食べる催しを7月21日(土)かじまやぁ美術館で無事終えることが出来ました。今年はアメリカ・ブラジル・台湾・グアムからの留学生と県外からの学生さんたちが参加しました。学生が人形芝居を観賞している間に、中村教授自身で広島・関西風「お好み焼き」を焼きます。これ程のお好み焼きにめつたにお目にかかった事がありません。奥さんの愛子さんがお好み焼きや冷やぞうめんの仕込みを前日からされていて、真心がこもった料理になります。留学生の皆さんもきっと故郷に帰ったらいい思い出になると思っています。 

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2007年07月22日

沖縄人形芝居「チョンダラー」公演

名桜大学・中村教授の日本事情の授業の一環として、開学以来毎年(昨年は美術館建設のため出来ませんでした)、人形劇団かじまやぁによる沖縄人形芝居「チョンダラー」の観賞と、中村教授と奥さんの愛子さんが作るお好み焼きと冷やぞうめんを食べる催しを7月21日(土)かじまやぁ美術館で無事終えることが出来ました。今年はアメリカ・ブラジル・台湾・グアムからの留学生と県外からの学生さんたちが参加しました。学生が人形芝居を観賞している間に、中村教授自身で広島・関西風「お好み焼き」を焼きます。これ程のお好み焼きにめつたにお目にかかった事がありません。奥さんの愛子さんがお好み焼きや冷やぞうめんの仕込みを前日からされていて、真心がこもった料理になります。留学生の皆さんもきっと故郷に帰ったらいい思い出になると思っています。 

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2007年07月18日

桑江良健の絵・モンマルトル(パリ)・6

2月のある寒い夜、モンマルトルのテルトル広場に似顔絵を描きに出かけたら、私以外にもう一人似顔絵描きがいた。観光客は来るはずも無いが2時間ほどまっていたら、一人の東洋人らしき男性が、もう一人の似顔絵描きに写真を見せて何か相談している。折り合いがつかなかったらしく帰ろうとしてたので、そこで私は「写真を見せてくれないか」と彼に声を掛けた。兄弟二人が並んで立っている小さな写真です。その時はまだベトナム戦争が終わってなく、パリにはベトナムからの難民が大勢来ていた時代です。恐らく、唯一だだ一つ兄弟で写っている写真を持ってベトナムの戦火から逃れて来たのだろう。「これを描くには1週間必要だ」と言ってアパートに持ち帰り、1週間後夜テルトル広場で会い手渡した。1週間かけて70フラン(4200円)だが30年以上たっても忘れられない出来事だ。私もこの似顔絵を描いたお陰で食にありつけた。 

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2007年07月17日

桑江良健の絵

若い頃西ヨーロッパ・北アフリカ・中東・インド・東南アジアと移動したが、私の絵に影響を与えたのは「何処でも素晴らしい絵は色彩と描写が一致している事」に気がついたことです。色彩と描写は不可分の関係にある。具象でも抽象画でも色彩がいいのは見る人の目に自然にとまる。ポンピドー美術館でトテモ面白い光景に遭遇した。小学1年生くらいの子が突然走っていって「ピカソの絵」の画面を、ドアをノックするように「コンコン」と叩いたがキャンバスだからそのような音がする筈も無い。その子は「にこっと微笑む」。。。同じ光景を何ヶ月後に別の子が同じような行動をとる。そのピカソの絵は抽象画で画面がとても硬そうな絵だったのです。いい絵は色彩で人を引き付ける力があるもんだとトテモ感動した事を覚えている。 

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2007年07月15日

桑江良健の絵・絵描の生き様・1

一昨日・昨日と台風4号で電気が30時間近く停電。文明の利器に慣れるとたかが30時間の停電ぐらいで人間は右往左往してしまう。絵を描きながら旅をしている時は「日が昇ると起き日が落ちると寝る」これが普通。。。台風はどんなに金持ちであろうが貧乏人であろうが容赦なくおそいかかる。絵はどんなに金が有ろうが無かろうが、又どんなに苦労していようが無かろうが絵の制作上は全く関係の無い事です。ゴッホに例えれば、私に言わせれば生活上は何の苦労も難儀もしていません。絵を描く上で多少苦労しているくらいです。このくらいの苦労は絵描であれば誰でも苦労しています。ピカソにいたっては5・6回結婚離婚を繰り返したに過ぎない。即ちどんな生き様も絵を描く上においては「等価価値」でしかないと思う。金があって才能のある絵描に対抗する為には各人が策を考えなければならない。私の対抗策は「どんな人間も一日は24時間しかない」と云うことでした。この24時間を如何に効率よく有効に使うか。そこが問題だ。 

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2007年07月11日

人形劇公演

今日は人形劇公演のため桑江良健の絵は休みます。 

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2007年07月10日

桑江良健の絵・セザンヌとの出会い・2

トレドに行ってもモチーフとめぐり合うことが出来ないのでグラナダやコルドバのアンダルシア地方に自然に足は向かう。その時は後に、この地を自転車でさ迷うとは夢見も思う筈も無い。ここまで来たらピカソの生まれ故郷のマラガまで行って、何か得る物があるかも知れないと思い向かう。マラガまで来たらアフリカ大陸の入り口モロッコまではすぐだが、、、「私は絵を描きに来ているのであって、旅行しに来ているのではないのだ」と自分に言い聞かせる。その時ふとセザンヌのことが頭に浮かび、セザンヌの生地エックスアンプロヴァンスにいって、サントヴィクトアール山を描こうと思いつく。一路フランスへ。エックスアンプロヴァンスはマルセイユから列車で約60キロのところにあり、サントヴィクトアールの岩肌の山が悠然と佇む街です。着いたその夜は町外れの丘でいつもの様に車で寝て、翌朝、山に向かい出発したら道を間違えてしまい、車を走らせていたら探していたモチーフが有るではないか。持ち主にお願いして描く。このテーマが自分の一生で最も重要な仕事になる。それから7年間そのテーマを追い続けることになる。1976年に「色彩と形と空間」と云うテーマが出て、1981年頃ピカソの絵と出会い今年2007年5月8日解くことが出来ました。たったこれだけの事に31年も費やしてしまった。絵が自由に描けるようになった時は絵画ブームも去り今はコンヒューターの時代だ。逆方向に行く人間の行く末は皆このようなものかも知れません。 

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2007年07月09日

桑江良健の絵・セザンヌとの出会い・1

ポンコツ車でパリを出て北のノルマンディー二向かい、シェルブール、ボルドーと南下したがモチーフを探すが見つからず、そこでフランスのグランドキャニヨンと呼ばれているドルドウニュー地方に移動、そこもダメ。モチーフと云うのは「木」です。当時とても木の幹に魅せられていた。仕方なくニースやサントロペのほうに移動、この地方は海岸線は大変なリゾート地ですが、崖を上がっていくとそこは中世のヨーロッパそのものです。とての素晴らしい所ですがモチーフが無ければ移動するしかない。いっそスペインに行こうと決めバルセロナに向かう。バルセロナはピカソ美術館があるが以前見たのでそのままヴァレンシアに向かう。どこかに有るだろうが見つけきれずマドリードになんとはなしに向きを変える。道はただただ真っすぐだ。途中約100キロ左前方にトレドの教会の塔が見えるので、進路をトレドに向ける。かってそこも尋ねたことがあるが神秘的な街なので訪ねたいと思う。エルグレコで知られている街です。トレドまでの道は殆ど畑で民家など何処にあるやらと云う感じで、ポンコツ車が故障でもしたら目も当てれない。 

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2007年07月08日

桑江良健の絵・モンマルトル(パリ)・5

パリに着いた年の秋の展覧会、サロン・ナショナルデボザール展に出品し入選する。嬉しさ半分とても恥ずかしい気持ちがした。自分の絵をまともに見れなかった。他の絵がトテモ立派実見える。約1月後今度はル・サロン展に出品これも入選、やはり恥ずかしい思いの方が先立つ。これではいかんと思いそれ以後出品することをやめた。翌1975年本格的に似顔絵を描き少し金を作る。この年が忘れられないのにもう一つ理由がある、「ベトナム戦争」が終わりテルトル広場の大勢の人が「万歳」したことです。9月友人から200フラン(12,000円)でフィヤット社制の軽自動車を買い、画材を詰め込みフランス・スペインを半年間移動する。ポンコツなので毎朝エンジンのかかりが悪くヒヤヒヤの連続。当時スペインはかの有名な独裁将軍・フランコの時代で、夜、車が故障して道路に止まっていると監獄にぶち込まれる時代でした。 

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2007年07月07日

桑江良健の絵・モンマルトル(パリ)・4

モンマルトルで似顔絵を描いて良かったことのひとつに、「クレミィエール」と云うカフェーの存在を知ったことです。そこのオーナーは周りのカフェーがどんなに変わっても、私達貧乏絵描に対してとても寛大でした。ユトリロやモディりアーニたちもそのカフェーを利用していたようです。当時誰がユトリロやモディリアーニが歴史に名を残すと思っていただろうか。そこの親父さんだけは信じていたのかもしれない。寒い夜似顔絵の客を探して体が冷えてどうしようもない時、カフェーの暖炉で暖をとることを許していました。(たの店は何か注文しなければなりません)。私がいた当時はまだ古き良きモンマルトルがありました。 

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2007年07月06日

桑江良健の絵・モンマルトル(パリ)・3

1974年から1987年までの13年を移動の時代。パリを拠点に移動しながら絵を描きましたが、一向に成果は上がらずじまい。絵は自分が思っているより難しいもんだと思い知らされる。どんな生き方しようが、金があろうがなかろうがそんなのは理由にならない。結果がすべてです。色々考えた挙句行き着いたところは「絵は色彩が全てではないか」、、、と。それから東洋・西洋の古典、近代、現代絵画を色彩の上から見るようになる。何処の絵でも良い絵は色彩が素晴らしい。自分の絵の方向性が見えてきました。しかし相変わらず絵は良くならない。そんな折ポンピドー美術館でピカソの絵と出合う。その絵は全く一般には人気のない絵で、題名は知らないが確か1930年代の絵と記憶する。人気のない絵はすぐ展示替えされるのでトテモあせります。毎週水・日曜日(入館料が無料)にその絵を見に行ったお陰で、美術館側も判ったのかその後長く展示してくれた。その絵のお陰で色彩をとくヒントをつかむ事が出来た。人間は何でも「出会い」かも知れません。 

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2007年07月05日

桑江良健の絵・モンマルトル(パリ)・2

私は美術学校に行って絵を勉強した訳でもないので、絵は素人なので似顔絵を描くことは大変勉強になった。テルトル広場での似顔絵は、似てなければ拒否されます。必死に似せようとしますから腕も上達する。そのお陰で形を捉えることに対して自信がわきました。絵の場合「似せる」と云うことは初歩の初歩。同年輩の連中との地球7回半の差をどうちじめるか、それが問題です。どんなに頑張ってもなかなか差はちじまりませから、逆転の思想で皆さんと反対の方に向かって歩けば、その差は存在しなくなると云う事に行き着く。即ち周りの価値観と同じく私が動く必要はないと結論づく。そこで移動の感情が芽吹く。 

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2007年07月04日

桑江良健の絵・モンマルトル(パリ)

目的を持って日本を出発した人と旅の途中で自分の目的を見つけた人とは、準備に大きな「差」がある。私はパリについて自分の目的を見つけたので、準備と云う点で殆どしてない有様。語学は全くダメ、絵もへたくそ、全てパリからスタートなので、他の人に比べて、地球7回半の周回遅れ。絵が自分の仕事だと思ったのは「旅」をしながら描けるからです。私は移動癖があり一定のところにじっとしていられない性質。定住することは面倒くさいことが多い。外国で生活する上で誰しもがと通らなければならないことが、「現地」で収入を得きれるか否かと云うことです。片道切符で来た連中は皆、即職探し、私もストックホルムで職を見つけていたら、パリ行きは少し遅くなっていたことでしょう。それと、イトコがモンマルトルに住んでなければ、絵とめぐり合うことが無かったかも知れない。人生とはほんの僅かな違いで行く道が違うものだ。半年後モンマルトルのピガールと云うところの安宿に居を移す。ピガールミディと云う安宿で、そこは夜の仕事をされる、マドモアゼルやマダム達が大勢いる所です。そこから私の絵の人生が始まった様です。不思議なことがあるもので昨日パリから友人の絵描から電話がある。 

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