2007年06月30日
桑江良健の絵・6 母の口癖4
外国行きの仕事も決まりホットしたい気持ちですが、現地に着くまでの生活をいかにするか、それが問題です。相変わらず屋外暮らしの毎日。新宿西口公園や代々木公園はたまた多摩川・荒川・・・埼玉県の大宮と云うところに日雇いの仕事があるので、朝5時に代々木公園を自転車(知人からもらう)で出発したが、9時に現場に着きそうにないのでひとつ手前の駅に自転車を止め電車に乗り換える。、現場で5時まで掃除の仕事、それから東京都内に自転車で向かう。その晩は荒川河川敷で野営。そうこうしているある日、別の日雇いの仕事を終え翌日も頼むという事になり、「貴方の住まいの近くの現場がいいだろう」ということで、「住まいは何処だ」と聞かれる。私は返答に窮する、やむなく「住まいは方々」と答える。その現場員は怪訝そうな顔をしてその日はすむ。日雇いするのだからそれほどの金持ちではないだろうが、それにしても「住まいがあちこちにあるとは」と思ったに違いない。翌日仕事を終え明日の現場を何処にするかとなり、昨日と同じことを聞かれ、答えは同じで「住まいは方々」ですとしか答えられない。彼もやっとその意味が飲み込めたらしく、事情を説明したらビックリして、すぐ社長に電話を入れ「事務所でよければそこで寝泊りしたら」という事になる。二人で事務所に帰る車中色々話をしていたら、彼も沖縄の人ではありませんか。又ビックリ・・・事務所に帰り社長さんに「1週間後は外国で仕事するため、東京八重洲の本社に行かなければならない」事を話したら、日本を離れるまでこの事務所から出勤しなさいといわれる。人生色々あるものです。外国で仕事し1983年沖縄に帰り墓造りを始める。型枠の図面をおこし、鉄筋、大工と私が中心になり兄弟・親戚で造る事が出来ました。建築の学校に行かせたが建築はせず、母が一番嫌いな絵描に成ってしまった馬鹿息子が、墓造りがせめてもの罪滅ぼしといいましょうか。翌年8月15日母没(享年79歳) 新しい墓に一番最初に入る。 2007年06月29日
桑江良健の絵・6 母の口癖・3
墓を造るべく帰国したのですがそこは外国に他ならない。東京では何をするにも保証人とか印鑑です。仕事と宿を探さねばなりませんが、すぐ見つかるはずはなし。やむなく多摩川の河川敷にテントを張り生活する。テントはそのままにして新宿あたりに仕事を探しに行く。同じ場所に長く野営すると怪しまれるから、毎日2・3キロ程度場所を移して、とうとう一月もすると奥多摩まで行ってしまう。奥多摩湖でどん詰まりですから、やむなく下流に向かい移動を始める。その間「アルバイトニュース」と云う求人紙を買い求職活動はしています。墓を造るにはまとまった金が必要だ。そうこうして三鷹市と云う所の職安に何気なく立ち寄る。「外国での仕事の求人」あり申し込む。連絡先は知人に頼み了解をもらう。決まるとは思いませんので、他に「新聞配達」のところもあたる。新聞配達は住み込みだから食住は確保できる。その時即決はせず返事を2・3日まってもらう。外国行きの連絡がこの2・3日である約束だったからです。結果はOKが出て、新聞配達の件は心苦しい思いはありましたが、丁重にお断りしました。 2007年06月28日
桑江良健の絵・6 母の口癖・2
母は父の死後事あるごとに「墓」を造れ、墓をつくれと言っていました。1981年のクリスマス・イブの日にモンマルトルで友人4人で、キリスト教徒でもないがクリスマスを祝う。メトロの終電に乗りポートオルレアンの屋根裏のアパートに戻り就寝。午前5時ごろオシッコがしたくなり目が覚め、「階下のトイレ」に行こうと立ち上がろうとしたら、右足が曲がらないくらい「ひざが」太もも程に腫れ上がっているではありませんか。旅では病は死を意味する事もあります。「とうとう桑江良健も悪運尽きたか」と色々と子供の頃の事が走馬灯の如く頭に浮かんできました。12月24日は母の誕生日です。(沖縄では戸籍の書き換えがあり、自分が思っていた生年月日との違いがよくあり、母も戸籍上は12月6か8日になっていたと思う。)母が言っていた「墓を造れ」と云うことを思い出しました。私自身パリでやることはやったという思いがあり、拠点を東南アジアに移そうと思っていた矢先のことでした。墓を造る決心をし、この膝を何とか直さないとと思いました。手元にある針灸の本に「副腎なんとかホルモン」がいいとあるので、辞書で調べあくる日、薬局にその薬を買いに行ったが、「売らない」といわれる。この薬は医者の証明書がなければダメらしい。そこで私は自分の膝を見せたところ、薬剤師さんは親切に処方を説明してくれ売ってくれました。2・3日したら大分よくなったものですから、大丈夫と思い片足でケンケンしたら又悪くなり、しっかり直そうと決める。 2007年06月26日
桑江良健の絵・6 母の口癖
私の母はすでに亡くなっていませんが、子供の頃よく言われたことが「君は人様にお世話になって今がある」と私は数え3歳のとき「肋膜炎」になり九死に一生を得る。特に医師の先生には言葉に言い尽くせないほどお世話になったそうです。我が家は南方から帰り、子沢山の貧乏で医療費が払う事ができません。しかしその先生は一切の医療費を取らず、半年間入院させ治療してくださいました。初め「助からない」といわれたそうです。毎日ベッドで寝ているのが、半年後早朝廊下を四つんばいではって歩きだし、先生初め看護婦さんたち皆で「万歳」したそうです。兄弟姉妹はもちろん伯父・叔母は私に食べさせるために、毎日「かえる」を取ってきてくれた。食料事情が悪かった当時、「かえる」は貴重な蛋白源だったそうです。医療費が払えないので母は毎日病院の掃除やらしていたようです。
私が野良仕事で「かえる」を殺そうとしたら「君は蛙に助けられた」と。それにしても私程人様にお世話になった男はいないかもしれません。その恩はまだ返していません。絵で歴史に残るような絵描に成れば、先生にご恩返しが出来るかな。
その先生の妹か姉か知りませんが、父の伯父(父の名付け親)が先生の姉妹の一人と結婚していました。父の伯父は日露戦争に行って、生きて帰れるとは思っていなかったが、文字の読み書きが出来るという事で、秘書かそのような任務に就くことが出来たそうです。何時か先生の肖像画を描きたいと思っています。
私が野良仕事で「かえる」を殺そうとしたら「君は蛙に助けられた」と。それにしても私程人様にお世話になった男はいないかもしれません。その恩はまだ返していません。絵で歴史に残るような絵描に成れば、先生にご恩返しが出来るかな。
その先生の妹か姉か知りませんが、父の伯父(父の名付け親)が先生の姉妹の一人と結婚していました。父の伯父は日露戦争に行って、生きて帰れるとは思っていなかったが、文字の読み書きが出来るという事で、秘書かそのような任務に就くことが出来たそうです。何時か先生の肖像画を描きたいと思っています。
2007年06月26日
桑江良健の絵・5 父の誕生と死
私の父・桑江良善(りょうぜん)は1904年(明治37年)日露戦争が始まった年に、桑江家(屋号:武戸桑江(んトゥ桑江))の次男として産まれる。兄弟・姉妹は長男・次男(父)・長女・次女・三男・四男・三女の順に生まれる。父の叔父が日露戦争に召集され出兵のとき叔父が父の名付け親になる。その時の叔父曰く「自分はこの戦争で死ぬだろう、この子が一生全うに生きていけることを願って、この子は男の子であるが童名(わらびなー)をナビーとしよう。」
人間の一生は宝くじのよう思われる。産まれいずる時、場所よってその人の運命が決まるようだ。父と長兄とは4歳違いで、長兄は当時とても秀才だったらしく親の希望を一身に集める。そのお陰で父は家の手伝いばかりやらされたようです。長兄は戦前の台湾帝国大学に進む、父は畑仕事の手伝いの日々、、、父と三男の弟とは12歳程年が離れているので、彼は父ほど家の手伝いはしなくて良かったようです。三男は旧制中学に行き卒業後海軍に入隊、戦後極東横浜軍事裁判で「終身刑で巣鴨刑務所に入る、その時同房に後の総理大臣になった岸信介いたようです。・・・横浜軍事裁判の事については森口かつ著:「最後の学徒兵」に詳しく書かれています。
その後父は1930年母と結婚して単身フィリピンのミンダナオ島に移民として移住、母は1年後に移住しそこで四男三女の子をもうけ、敗戦にともない引き上げる。そのとき次男と三女が死ぬ。引き上げの地・大分県杵築で1945年四男の兄が生まれる。それから沖縄に引き上げてきて1948年に私が生まれる。即ち沖縄で産まれたのは我が家族で父母と私だけです。
父が自分の妻に「金ボタンの学生服が着たい」と云うので夫婦二人で買いに行く。それから一週間後、床についてまもなく口から洗面器一杯ほどの血を吐いていき途絶える。そのとき母は吐き出した血を父の口に戻そうと、必死に手ですくい口に移す姿は壮絶です。48年たった今でも鮮明に覚えているものです。
あくる日の葬式には「金ボタンの学生服」を着せて棺おけに入れ土葬にする。葬式用の白黒の写真を見ながら、何時かカラーで父の肖像画を描こうとその時決めました。私が小学5年生のときでした。絵描に成るとは夢にも思わず、父の肖像画一点を描けばいいと思い続け、パリで絵と巡りあったのも不思議な事です。その後19年後父の肖像画を描きました。兄曰く「親父は何も財産を残さなかったが、財産相続で兄弟ゲンカをしなくて済んだことが財産だ」、、、名言だ。敢えてあると言えば「私に肖像画を描かし絵描にしたことか」。母は私が絵描に成る事には涙を流して大反対していた。「人間万事塞翁が馬」・・・父が旧制中学まででも行っていたら、私はこの世に産まれてこなかったかの知れない。このような話は昔ならよくある事とはいえ、ナビー父のことを書く事にしました。
人間の一生は宝くじのよう思われる。産まれいずる時、場所よってその人の運命が決まるようだ。父と長兄とは4歳違いで、長兄は当時とても秀才だったらしく親の希望を一身に集める。そのお陰で父は家の手伝いばかりやらされたようです。長兄は戦前の台湾帝国大学に進む、父は畑仕事の手伝いの日々、、、父と三男の弟とは12歳程年が離れているので、彼は父ほど家の手伝いはしなくて良かったようです。三男は旧制中学に行き卒業後海軍に入隊、戦後極東横浜軍事裁判で「終身刑で巣鴨刑務所に入る、その時同房に後の総理大臣になった岸信介いたようです。・・・横浜軍事裁判の事については森口かつ著:「最後の学徒兵」に詳しく書かれています。
その後父は1930年母と結婚して単身フィリピンのミンダナオ島に移民として移住、母は1年後に移住しそこで四男三女の子をもうけ、敗戦にともない引き上げる。そのとき次男と三女が死ぬ。引き上げの地・大分県杵築で1945年四男の兄が生まれる。それから沖縄に引き上げてきて1948年に私が生まれる。即ち沖縄で産まれたのは我が家族で父母と私だけです。
父が自分の妻に「金ボタンの学生服が着たい」と云うので夫婦二人で買いに行く。それから一週間後、床についてまもなく口から洗面器一杯ほどの血を吐いていき途絶える。そのとき母は吐き出した血を父の口に戻そうと、必死に手ですくい口に移す姿は壮絶です。48年たった今でも鮮明に覚えているものです。
あくる日の葬式には「金ボタンの学生服」を着せて棺おけに入れ土葬にする。葬式用の白黒の写真を見ながら、何時かカラーで父の肖像画を描こうとその時決めました。私が小学5年生のときでした。絵描に成るとは夢にも思わず、父の肖像画一点を描けばいいと思い続け、パリで絵と巡りあったのも不思議な事です。その後19年後父の肖像画を描きました。兄曰く「親父は何も財産を残さなかったが、財産相続で兄弟ゲンカをしなくて済んだことが財産だ」、、、名言だ。敢えてあると言えば「私に肖像画を描かし絵描にしたことか」。母は私が絵描に成る事には涙を流して大反対していた。「人間万事塞翁が馬」・・・父が旧制中学まででも行っていたら、私はこの世に産まれてこなかったかの知れない。このような話は昔ならよくある事とはいえ、ナビー父のことを書く事にしました。
2007年06月25日
桑江良健の絵・3 人形劇団かじまやぁとの出会い
人形劇団かじまやぁの事務所は首里赤平町にあり、以前は外人用住宅として建てられていて、一風変わった趣のある事務所になっていました。そこで何時かその事務所を絵にさせてくれと頼んだところ、何時でも描いていい云う返事をもらう。しかしそれを描くには大きなキャンバスが必要で、私にはキャンバスを買う金がないので思案していたら、写真家Hさんが写真用に使っていたキャンバスがあるのでそれを使えといわれた。そこで木枠は建築現場の残材をもらいうけ、キャンバスを張り建築用のペンキを塗って184x161センチの絵画用のキャンバスを造り、事務所に寝泊りして2ヶ月をかけ仕上げました。絵を描き出す時点で私は無宿者になっていたので、人形劇団かじまやぁの事務所に寝泊りしていたわけです。描きあがった絵は写真家Hに預かってもらう事にして彼のスタジオの壁に掛けてありました。現在はその絵は「かじまやぁ美術館」に展示されています。
2007年06月24日
桑江良健の絵・3 人形劇団かじまやぁとの出会い
写真家の友人に「安謝川にスッポンがいる」からと誘われ、今後の私の蛋白源の調達に大変重要な事なのです。彼は川の撮影の仕事で私は絵を描くためのエネルギー源として川の調査をしていきました。なかなかスッポンは見当たりません。小さい亀が小さい岩の上で頭を上に突き上げじっーと佇んでいます。その川の水は工場排水や何やらでとても汚染されています。以前名護に住んでいる時は、屋部川のテルピヤを蛋白源としていましたが、安謝川はいくら私でもそこで取った物を食べる気にはなりませんでした。でもスッポンが居るか否かは調べておこうと上流へと行くと。そこで写真家曰く「この近くに人形劇をしている人が居る」からと言われ、行って見るとそこが「人形劇団かじまやぁ」の事務所です。
2007年06月23日
桑江良健の絵・2
人形劇団あじまやぁを手伝って20年なるが、それ以前は11ヶ月絵描き残りの1ヶ月で食料代をアルバイトで稼ぐ日々でした。今は100日を人形劇にあて残りを絵を描く日々で、年間2300時間絵を描くように努めています。当初人形劇を手伝う事にあたり、一日の事始を人形劇に取られるのがいやですから、午前2時におき5時まで絵をかき、それから人形劇の準備に入り、午前6時家を出発して公演先に向かいました。午後3時頃帰宅。これを繰り返していたら、とうとう結核にかかり入院する事になりました。おかげで休養する事が出来ました。今は帰宅してから3時間描くようにしています。
2007年06月22日
桑江良健の絵
ブログを始めて3・4日しかならないので写真を掲載する事が出来ません。マニュアルを見て何度も試みたが出来ませんので当分の間は文字だけにします。
今回は私の絵を描く時間の事を述べたいと思います。川柳を一句:「絵描とは他人(ひと)からみれば暇な人」。私は当初絵描になるつもりはありませんでした。1974年日本の生活に飽き脱出して、パリのモンマルトルで大勢の絵描を見てとても興味をそそられ、定住性の無い私に一番あっている仕事だと直感した次第です。日本では建築関係の高校を卒業してすぐ東京で働く事になりましたが、何処の会社でも長続きしませんでした。仕事自体は何処の会社でも一生懸命働きすぐ信用されるが、私とすれば信用されればされるほど、会社を辞めたくなる性質でした。即ち建築は私にあってないという事です。
私は26歳に絵とめぐり合い絵描になる事しました。その時感じたのが「やっと仕事が見つかった」・・・他の絵描たちと比べると10年以上も遅い事になります。その遅れを取り戻すためにはどうすれば良いか考えた末、建築の仕事と同じく絵も仕事だから1日8時間労働・即ち1日8時間絵を描くことに結論付きました。午前9時から始めると午後5時まで、途中食事時間1時間取ると6時までの実働8時間が私の一日のサイクルです。初めのうちはなかなかできませんでしたが30年くらいこの生活です。このブログをご覧に成る方は不思議に思われる事でしょう。「桑江良健は金持ちなんだと」。そんな事はありません、餌はその後探しに行きます。。。。「絵描とは他人から見れば暇な人」 以後このような絵描または絵に付いて記してみたいと思います。
今回は私の絵を描く時間の事を述べたいと思います。川柳を一句:「絵描とは他人(ひと)からみれば暇な人」。私は当初絵描になるつもりはありませんでした。1974年日本の生活に飽き脱出して、パリのモンマルトルで大勢の絵描を見てとても興味をそそられ、定住性の無い私に一番あっている仕事だと直感した次第です。日本では建築関係の高校を卒業してすぐ東京で働く事になりましたが、何処の会社でも長続きしませんでした。仕事自体は何処の会社でも一生懸命働きすぐ信用されるが、私とすれば信用されればされるほど、会社を辞めたくなる性質でした。即ち建築は私にあってないという事です。
私は26歳に絵とめぐり合い絵描になる事しました。その時感じたのが「やっと仕事が見つかった」・・・他の絵描たちと比べると10年以上も遅い事になります。その遅れを取り戻すためにはどうすれば良いか考えた末、建築の仕事と同じく絵も仕事だから1日8時間労働・即ち1日8時間絵を描くことに結論付きました。午前9時から始めると午後5時まで、途中食事時間1時間取ると6時までの実働8時間が私の一日のサイクルです。初めのうちはなかなかできませんでしたが30年くらいこの生活です。このブログをご覧に成る方は不思議に思われる事でしょう。「桑江良健は金持ちなんだと」。そんな事はありません、餌はその後探しに行きます。。。。「絵描とは他人から見れば暇な人」 以後このような絵描または絵に付いて記してみたいと思います。
2007年06月19日
人形劇団かじまやぁ
人形劇団かじまやぁの過去2・3年の主な公演状況を記したいと思います。
県内:沖縄国立劇場一般公演
久志小中・山田小・稲田小・大北小・屋良小・仲西小・北美小・
赤道小・・・其の他保育園・幼稚園
宮古高校・女子短期大学・北谷図書館・豊見城公民館・若狭公民館・
佐敷文化協会・宜野座村・仲尾次老人会・
八重山石垣一般公演・宮古一般公演
沖縄県私立幼稚園PTA連合会・琉球放送(RBC)労組・・其の他
県外:東京・埼玉・大阪・兵庫・岡山・広島・長崎公演
演目:沖縄人形芝居ちょんだらー
各公演大変好評です。ご覧になりたい方は人形劇団かじまやぁ
電話:0980ー52-8084までご連絡下さい。
※声優は沖縄芝居の大御所八木政男・北村三郎・吉田妙子・島正廣・
上原直彦・多嘉良和枝我喜屋良光・
高宮城実人・安次嶺正美・具志清健・
山川宗春桑江いち子・桑江和明・
桑江純子
県内:沖縄国立劇場一般公演
久志小中・山田小・稲田小・大北小・屋良小・仲西小・北美小・
赤道小・・・其の他保育園・幼稚園
宮古高校・女子短期大学・北谷図書館・豊見城公民館・若狭公民館・
佐敷文化協会・宜野座村・仲尾次老人会・
八重山石垣一般公演・宮古一般公演
沖縄県私立幼稚園PTA連合会・琉球放送(RBC)労組・・其の他
県外:東京・埼玉・大阪・兵庫・岡山・広島・長崎公演
演目:沖縄人形芝居ちょんだらー
各公演大変好評です。ご覧になりたい方は人形劇団かじまやぁ
電話:0980ー52-8084までご連絡下さい。
※声優は沖縄芝居の大御所八木政男・北村三郎・吉田妙子・島正廣・
上原直彦・多嘉良和枝我喜屋良光・
高宮城実人・安次嶺正美・具志清健・
山川宗春桑江いち子・桑江和明・
桑江純子



日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!