2008年02月12日
桑江良健の絵・徒然45

うしんちー 大きさ:F4号 A氏所蔵
エディト・ピアフの名前を最近よく耳にする。フランスの歌手で国葬になったと聞く。
私が初めてエディト・ピアフの名前を耳にしたのは、モンマルトルで似顔絵を描いたときです。
一緒に似顔絵を描いていた人からエディト・ピアフのことを聞く。
私が住んで居た所が、ピアフが子供の頃住んで居た所です。
私のアパートは、通りに出て2,3軒右に行き、右に下るとムーラン・ルージュがあり、左の通りを上がるとムーラン・ド・ラ・ギャレットがあります。
アパートから150mほどのところにアベスと云う広場が有り、ここでピアフは木箱か何か台に立って歌をうたって居たそうです。
その後、彼女はオランピア劇場で歌うことになる。
私が似顔絵を描いていた1974年頃は、まだピアフとかモディリアーニ、ユトリロが身近に感じられる頃でした。
2008年01月21日
桑江良健の絵・徒然33

形体 F10号 かじまやぁ美術館常設展示
私もフランスに留まろうと思えば出来ました。
当時も外国から移民が多かったフランスでは、ミッテラン大統領になる前にフランスに居た人には、勤め先を捜して社長の推薦状があれば誰にも労働許可証を与えると云う事でした。
多くの人達がその時フランスの労働許可を得られたと思う。
私はやはり自由人で居たかったので、拠点をアジアに移すべくフランスを後にした。
バンコクは世界に目を向けたらとても地理的にいい所だと思います。
2008年01月19日
桑江良健の絵・徒然31

あじくーたー 大きさ:144x121cm かじまやぁ美術館常設展示
私はフランスに居るとき、努めた事がありません。ある時喫茶店で皿洗いの募集があったので行ってみたら、「もう決まってしまった」と言われいそいそと帰って来ました。翌日、新聞にまだその喫茶店が皿洗いの募集をしているのを見て、納得した次第です。私は皿洗いさえ断られたのだと自分の運命を感じた。
今日掲載してある絵は、私が描いた作品でもっとも時間を掛けた作品です。
2007年12月29日
桑江良健の絵・徒然20

人形使いの肖像 F100号 かじまやぁ美術館所蔵
今朝の新聞に目を通すと、ネパールで王制を廃止して共和制に移行するとある。
1978年ごろ、私がネパールに行ったころ「毛語録」の本がやたらとカトマンズの街に出回っていました。当時、「ネパールが共産主義になるのかなぁー」と半信半疑な思いで居ました。でも数年前から毛派の活動が、沖縄の新聞にも載るようになり注目にていました。
近年まれに見る市民革命ではないだろうか思っています。21世紀のフランス革命のような感じがしてならない。
何事も「ローマは一日にして成らず」を実感した次第です。
私も彼らに学ばねばと思っています。。。「ローマは一日にしてならず」。
2007年12月28日
桑江良健の絵・徒然19

岩のある風景 大きさ:F40号 かじまやぁ美術館所蔵
昨夜「ブット元首相の暗殺」の二ュースを聞き、1983年パキスタンの南の都市カラチに行った事を思い出した。
入国の際、「15日間の滞在しか」、税関吏はくれない。「国家間の条約で3ヶ月滞在できるはずだ」といったがダメだと言われる。外務省に報告すればよかったのだが、、、、でも今もその証拠は持っています。
一般の国民はとても親切です。
その時のパキスタン行きの目的は、中部パキスタンのインダス文明の発祥地、モヘンジョダロに行く事でした。
インダス川域にありますが、今はこれと云ったものはなく、ただ平地に遺跡があるだけです。
博物館では当時の装身具が飾られていて、何千年前の人達が作ったとは思えない程の物があります。
アレキサンダー大王はインダス川を渡るため、イスラマバード辺りから南下しハイデラバード及びモヘンジョダロあたりで渡河に成功したそうです。それ程激流との事です。
インダス文明の滅亡には謎が多いようです。博物館で見る限り死体(遺骨)が、同じ方向に大勢倒れて居ます。
原子爆弾みたいな巨大なエネルギーが原因ではないかと云う説もあるようです。インドのカーマスートラにもそのことが記されている事を雑誌で読んだ記憶がある。
ブット元首相の暗殺のニュースは非常に悲しい事ではあるが、世界の四大文明の発祥地があるパキスタンがこのまま終わるはずがないと思います。
バグダッドでパキスタンの人達と一緒に仕事した事がありますが、器の大きさを感じました。。
2007年12月27日
桑江良健の絵・徒然18

形体 大きさ:F10号 かじまやぁ美術館常設展示
30年前南フランスのエックス・アン・プロバンスで半年間、車で寝起きしながら絵を描いていました。
車も故障して廃棄処分し、作品をパリに発送するため乾くまで数日間エクスの街に留まっていました。
ある日公園で手紙を書いていたら、乳母車を押している綺麗なご婦人が、私の前で立ち止まり、「明日もこの公園に来るのですか」と尋ねる。勿論何処かに行くあてもないし、まだ絵も乾いてないので1日公園過ごすつもりである事を告げる。
翌日も公園で手紙を書いていると、そのご婦人が乳母車を押して、何かを持って来ている。
それは彼女の旦那さんの衣類なのです。私の身なりのみすぼらしさに心を痛めたのでしょう。「これを着なさい」とのことでした。心尽くしはとても有りがたいのですが、私には大きすぎる様ですが有りがたく頂きました。
彼女はペルー出身でエール・フランスのスチュアーデスをされていたそうで、ご主人はエール・フランスの現役のパイロットとの事でした。
彼女曰く「貴方は日本と云う素晴らしい国に生まれて幸せな事です」。当時ペルーは政治情勢が厳しかったのでしょう。
私が絵描だと云うと、「1点絵を買いたい」との事になりパリに戻り、新しく「今日掲載してあるようなシリーズの作品F25号」を送る。
その作品が、私がフランスでフランス人に売れた最初の作品です。
2007年12月24日
桑江良健の絵・徒然17

屋我地 大きさ:F60号 かじまやぁ美術館常設展示
フランス外人部隊出身者で出来ている会社に友人が勤めていて、アフリカのガボンと云う国で仕事があるので「行かないか」と云う誘いを受ける。勿論、OKである。
ガボンはコンゴの隣にある国で、そこで窓のサッシを取り付ける仕事です。
当然行けるものと思っているので、計画はガボンを中心に考えていて、どのように行こうか友人と色々考えていました。
モロッコに入って大西洋沿岸を車で南下しようか等々。
小学6年頃、兄の命令で新聞を読むようになって、当時ベルギーからコンゴが独立する事で新聞によく、コンゴとか国連のハマーショルド事務総長の名前が載っていました。ハマーショルド事務総長が飛行機事故で亡くなった記事を読んでいたので、コンゴ方面には非常に関心がありました。
ガボンでの生活を夢見ていたので、なけなしの金も使ってしまった訳です。ところが事情が変わり行けなくなってしまう。
何事も期待しすぎはいけません。生活を立て直すのに大分時間を費やす事になる。
2007年12月23日
桑江良健の絵・徒然16

H氏の肖像 大きさ:F100号 かじまやぁ美術館常設展示
3ヶ月毎にビザの関係でフランスを出て行かなければならない。
久しぶりにギリシャに行ってみようと思い、バスで旧ユーゴスラビアを経由しアテネに入る。
寝場所はアクロポリスが見える小高い山でテントを張り過ごす。思ったより寒い。
あくる日アクロポリス(パルテノン)に行って見てビックリ。
モンマルトルで一緒に似顔絵を描いていたジプシーの女性が、パルテノン神殿の広場で似顔絵を描いていました。彼女も私に気付き互いに挨拶をして別れる。
ヨーロッパではジプシーの証明書を待っていれば、何処にでも行く事が出来ます。モンマルトルで似顔絵を描いているジプシーの方々も、夏が終われば暖かい所に移動すようです。
2007年12月19日
桑江良健の絵・徒然14

竹馬の友 大きさ:144x126cm かじまやぁ美術館常設展示
マチスはセザンヌの絵を1点持っていて、常に絵を描くとき傍らにその絵をかけて絵を描いていたそうです。
話の様子だと0号サイズのようです。
引越しの際、自分の作品は弟子達に運んでろらったらしが、セザンヌの作品だけは常に彼自身が運んだそうです。
ポンピドー美術館ではマティスとピカソを重点的に見ていたが、彼らと同様私も歴史の中で生きたいものです。
しかし彼らの作品を全て認めて居る訳ではありません。特にマティスの「ルーマニアの女」とピカソの「アルルカン」のバーントシシェンナーの色が必要以上に「赤く」感じられるのが常に気になって仕方がなかつた。色彩空間が完璧でないとこのような現象を起こします。
2007年12月17日
桑江良健の絵・徒然12

新里ビラから見た知念半島 大きさ:F15号 かじまやぁ美術館常設展示
ルーブル美術館内に、ピカソ・コレクションを展示してある部屋がありますが、そこにセザンヌの作品が何点か展示されていました。私はそれを見るのが楽しみでした。
その中に「シャトウ・ノワール」と云う作品がありましたが、晩年のセザンヌの作品です。
聞くところによると、その作品は、ピカソが1930年代に散歩の途中、ある画廊に展示されているのを見て、自分の作品数点と交換したようです。
歴史に残っている作家も、生存中は我々と大差ない存在のように思います。しかし、歴史に残るにはそれら歴史上の人達と何らかの関係、エピソードを持つ事が重要でないかと思う。
小さい目標は小さい努力しか生まないし、又結果もしかり。
大きい目標は大きな努力を生む。
2007年12月16日
桑江良健の絵・徒然11

幹 F10号 かじまやぁ美術館常設展示
1976年に南フランス、エックスアンプロヴァンスで描いた作品です。このような作品を20点ほど描いたが、私の手元には3点しかありません。
その後色彩の研究に入る元となった作品です。どのように色彩を研究していけばいいのかも判らず大変悩みました。
でも私が居たモンマルトルには有名・無名の絵描が沢山集まります。先輩作家の話を聞き感動し、又歴史に残る絵描が日常的に散歩しています。
私でも出来るのは何かと常に考えていて、可能な事から実践に移してきました。
その第一が「絵を描く時間を多く持つ事」でした。その為には可能な限り切り詰めてきました。
日本で有名な絵描の「村上ひでおさん」曰く、「ダンボールにでも何にでも絵を描けばいい」と云う一言を頂戴いたしました。
2007年12月12日
桑江良健の絵・徒然10

構成 F25号 かじまやぁ美術館常設展示
パリについて初めて住んだところは、ムーランルージュを右に上がった突き当りの通りを左へ3、4件目建物の4階でした。
私の部屋は通りに面していて、通りの左斜め前方の建物にゴッホが住んでいたそうです。
かのゴッホが住んでいたのかと、とても感激したのを覚えている。
その後何日かしてアムステルダムのゴッホ美術館に行ってみました。
日本で小林秀雄著「ゴッホの手紙」を読んでいたのでとても期待していたのですが、彼が云う程の感動はありませんでした。小林秀雄は文章はうまいが、絵は殆ど知らないのじゃないかと思います。
それはさておき、私がゴッホ美術館で感動したのは、美術館の3,4階に展示された、浮世絵師・豊国の作品群です。ゴッホの絵には目もくれづ、豊国の版画を何時間も見ていました。かれこれ3,4時間見ていたが、私以外誰もその階に来ませんでした。
この感動は、後の私の絵画活動でとても重要な意味を持つことになる。
2007年12月10日
桑江良健の絵・徒然8

人形使いとキジムナー 大きさ:F25号 かじまやぁ美術館常設展示
毎週水、日曜日にルーブル美術館に行っての感想ですが、モナリザ以外の絵で一番人気のある絵は、ダビットの「ナポレオンの戴冠式」の絵の様に思いました。
展示室には必ず長いソファー椅子が置かれていて、「ナポレオンの戴冠式」の前のソファーに腰掛けている人が一番多かったです。
時代は経ても、何が人々に好まれるかを感じたひと時でした。
絵はいろんなのがあって面白いですが、方々旅してみて、絵描が絵描自身の身を守るためには、絵描としての技量を身につけなければならないと思った。
2007年12月06日
桑江良健の絵・徒然7

ある人形使いの肖像 F100号 かじまやぁ美術館所蔵
Tさんとは、私がモンマルトルで似顔絵を描いて居る時知り合う。彼もインド初め方々旅をした男で、取り合えずパリに居座っているという感じだ。
年は私よりひとつ下だが、とても博学ときている。私はそれとは逆くですから、彼から色々なことを教えてもらう。
音楽、文学、哲学、科学、物理とこんなに知識のある人はあまり知らない。彼は一月に100冊ほどの書物を読む。自称、読書中毒者だと。
昨夜、彼の夢を見た。何故だろうと思い今日は彼のことを書くことにした。
ゾラの小説、居酒屋に出てくる主人公の夫のように、彼曰く、「俺は屋根から落ちて死ぬかもしれない」と口にする。当然、私はそんな馬鹿なことを言うなと、、、。
1983年、当時彼はバスティーユの屋根裏に住んで居て、最後の晩をバスティーユ広場前のカフェーで夜の12時まで語り合う。
その夜は彼の部屋に泊まり、早朝、バスティーユのメトロで別れる。
お互い、めったに振り向かないが、その時はどういう訳か知らないが、「同時に振り向く」。これが彼の最後の顔である。
私は、帰国のためパキスタンに立ち寄り、バンコク経由で帰国。
「彼はパリの屋根から落ちて死ぬ」との連絡を沖縄で受け取る。
私の人生に大きな影響を与えた男であり、今もそれが生き続けている。
2007年12月03日
桑江良健の絵・徒然6

構成 大きさ:F30号 かじまやぁ美術館所蔵
移動しながら絵を描く事は、非常に効率も悪くハードでしかも成果も少ない事が解る。
友人達の協力、助言のお陰で絵を描き始めることになる。
水曜日と日曜日はルーブル美術館とポンピドー美術館に行く。
見る絵は決めている。ルーベンス、ドラクロア、セザンヌ、ピカソ、マティス等を中心に見て廻る。
どんなに美術館通いしても一向に絵はよくならず。やはり才能の問題かと独り言をつぶやく。
ゴッホが言っているように、「もう後戻りできない年齢になっている」。
友人と二人でカフェーで話しをしている時、「ミレーは太陽を見つめていた」話を思い出し、じゃあー私も太陽を見てみようと云う事になる。あまりにも長く私が太陽を見るものだから、友人はビックリして「目を傷めるから」とたしなめられる。目を閉じても真っ暗闇に太陽の残像が浮かび上がる。
ミレーの言に従い「太陽を見た」お陰でピカソの絵とめぐり合う。
後日ポンピドー美術館に行ったら、ピカソの新しい作品が展示されている。何の変哲もない作品であるが、私には大変重要な作品になる。この作品との出会いが絵を解くきっかけになる。1億光年先にかすかに光を見出すことが出来た。それからはゆっくりゆっくり歩を進めることが出来、1976年から始めた「色彩と空間」関係が2007年に完全に理解する事が出来た。
今後の絵画活動は余分な事の様に思えて仕方がない。
2007年11月30日
桑江良健の絵・徒然3

ムイ(林)の中 F40号 かじまやぁ美術館所蔵
モンマルトルの似顔絵描き仲間のNさんは、映画の助監督をしていたそうでパリに兄さんと一緒に来て、似顔絵を描きだしたそうです。
Nさんは、助監督をやっていたと云うだけあって、とても映画に詳しい人でした。映画の事をよく教えてもらいました。
ある時、彼と一緒にモンパルナスの「カフェー・ドーム」と云うカフェーに、藤田嗣治を知っているマダムが居るので二人で会いに行きました。何を話したかあまり覚えてない。
絵画史の中に出てくる人の事を何でもいいから聞いて見たいと思った。
その人の名前は「マダム・ブリジット」です。
2007年11月29日
桑江良健の絵

つきしろから見た中城湾 大きさ:F100号 かじまやぁ美術館所蔵
1974年、何の目的も持たずにパリに来た。
モンマルトル墓地の近くに住むことになる。ある時たばこ屋でタバコを買っていると、後ろから「私のタバコも買って下さい」と日本語で声を掛けられる。
彼は、昨日パリに来てフランス語が全然話せないとの事です。
一緒にカフェーに入り色々話をし友達になる。彼・Gさんがパリで初めての友達と成る。
Gさんはパリに絵を描きに来たとの事。私とは違い皆目的を持ってパリに来たようです。
Gさんは私よりひとつ年下だが、すでに絵を描いて10年以上になる。私とは比べものにならない程絵がうまい。
私がタバコ屋で彼と会わなければ、今の私があるだろうかと考える今日この頃です。
人生には、「もしあの時あの人」と云う、「もしも」ということで人生の方向性が決まっていくように感じる。
絵の事を色々教えてもらった。お互い若いからよく言い合いもしたものです。
そのGさんは、いま何処に居るのかわかりませんが、きっと頑張っていることでしょう。
Gさんは、私の人生でキーパーソンの一人です。
2007年11月21日
桑江良健の絵・徒然1

人形劇団かじまやぁ 大きさ:184x161cm かじまやぁ美術館常設展示
アルジェからパリに戻りはしたが、3ヶ月単位でフランスを出ないと不法滞在になる。でも絵を描かねばならない。幸いにも友人達のお陰で早速制作に取り掛かることが出来た。
今までのような方法では絵を描き続ける事は困難だ。絵を描くには拠点が重要だと判った。移動しながら描くのはとても効率が悪い。
今まで道草、遠回りしたが気持ちがスッキリしたので、それで良かったのかもしれない。
当時パリでは水曜日と日曜日が、ルーブル美術館とポンピドー美術館が無料だったので、毎週2回は美術館廻りして自分の絵と比較する時間に当てる。



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